ガレキの撤去始まる 2011年 6月26日 作成

6月25日、日付が変わった頃に弘前をたち、被災者は無料となった高速道路を走り早朝山元町に着きました。隣家との境の側溝の泥払いを終え休んでいると、ガレキ撤去を委託されている業者の人たちが出勤してきました。そして、急遽我が家の庭のガレキの撤去をはじめてもらうこととなりました。1日では終わらない作業ということで、25日(土)、27日(月)、28日(火)で行うということです。このページでは25日の様子を紹介します。

早起きは三文の得、でしょうか、朝早くに自宅にいたことが幸いして、当初、役場より告げられていた7月過ぎという時期をかなり前倒ししてガレキ除去の作業が始まりました。
いくらなんでも今日からとは行かないでしょうから、今度の火、水をということで話を一度まとめたのですが、業者のほうからその話をした後、今日から始めたいと申し入れがあり作業が始まりました。ここから重機を庭に入れることとなりました。
先ずは塀のブロックを傷めないように木々を抜き取り、ブロックのところに敷きました。
木々の抜き取りに関しては、生きている木もありますが、ほとんどが枯れているため、こちらでお願いしたことです。
とはいえ、自分で植えた木、10年間育てた(ほって置いただけですが)木々か抜かれてゆく様は哀愁を感じます。
更にその上に畳を敷いて養生していました。
我が家の畳は写真のようにかなり薄い畳なので何枚も重ねて敷いていました。
重機の進入部分の庭木を抜き、ブロックの上に重ね、畳を敷き詰め庭に侵入してくる様子です。
庭に入ると、目前にあるリビング、ダイニングにあった我が家のガレキをつまんではダンプに移してゆくという作業で撤去が始まりました。
日常の生活に使用していたさまざまな物が、つままれてはダンプの上に移されてゆきます。
動画の始めのものは温水循環型暖房機のホットマンの室内機です。扇風機のような軽いものまで重機でつまんでいるちょっと笑えます。
東手から西手に移る重機の経路部分のガレキを取り除き、西手の家具類等が重なっているガレキの山に作業が移りました。
作業に見入っている間にいつの間にか重機かもう1台登場です。
結局重機2台、ダンプ3台での作業となりました。

息子たちと一生懸命外に出した50インチプラズマテレビや冷蔵庫、いとも簡単に動かされ、つままれ、持ち上げられ、撤去されてゆきました。
買ったときの思い出、使っていたときの思い出、泥まみれの中、家族で運び出したときの思い出、駆け巡ります。
写真右下の四角いのがテレビです。ホームシアターにしてよくDVDを楽しんだものでした。底から左手、タイヤとの間にある白い四角いのがPC本体です。
このPCに接続していたハードディスクにはテラオーダーのたくさんのデジカメ画像が納められていました。
被災直後これら思い出の品々を泥の中から外に搬出したときは本当につらい思いでした。
ガレキの山がほとんど消え今度はウッドデッキの解体です。新築当初DIYで作ったウッドッデッキ、10年経ち腐食もあったものですがあまりにも簡単に壊されてゆきました。
ウッドデッキが処分されてゆく様子です。
西手和室側のデッキは津波にのり、いかだのように流されたようで、原型をとどめています。東手リビング側のデッキはフェンス部分は破壊され、床板のみ原型をとどめていました。ともにDIYで基礎から自作したデッキでした。
庭の周りだけではなく玄関前の木々も処分してもらいました。新築当初、周囲にはヒバ類、玄関前にはきんもくせい、シラカシ等足しげく植木屋さんに通い買ってきたものでした。
あんな大きな機械なのですが、根に着いた土を、起用に小刻みに揺らして落としていました。

土の中に眠っていたバイクも吊り上げられ庭の外へ運び出されました。新車で購入して2年、遠出は北海道ツールリング、コケた事もなくとても綺麗な状態でしたが無残な姿になってしまいました。そういえばよく行ったお決まりコースは今回の地震で同じく津波に流された仙台空港でした。
3月11日以来の立った状態のバイクです。こうしてみると使えそうです。もちろん修理すれば使えるようになるとは思いますがこのバイクはかなりの電子機器搭載車。イモビライザー、PGMFI、可変バルブ制御とホンダならではハイテクマシーンでもあり、その辺の電子機器を入れ替えるだけでも相当な金額となることでしょう。
山元町のHPに我が家の行方不明になっていたデミオが移動車両として掲載されていたので、業者の作業が昼休みの間に、その姿を確認のため、デミオが置かれている山元自動車学校へ行ってきました。ここへ行くには一度山元町役場へ行き許可証をもらって立ち入ることとなります。確認後は許可証をまた役場に戻します。

この山元自動車学校は自分がバイクの免許を取るために通った場所ですし、二人の息子も車にバイクにと通った場所です。息子の同級生のお母さんがここで働いていて亡くなられていますし、たくさんの方がこの学校で亡くなっています。この無惨な姿に津波の恐ろしさを新たにします。
沢山の車両が置かれていました。その沢山並べられた一番奥のほうに我が家のデミオ君がこんな姿になってありました。
原型をとどめていませんが、その車体の鮮やかな緑色で、我が家のデミオ君であることが一目でわかりました。
後ろに回って、変形したナンバープレートを確認し、間違いありませんでした。
それにしてもずいぶんと無惨な姿になったものです。
妻がパートで海沿いのデイの施設に駐車している間に津波が押し寄せたものです。
坂元字茨田ということこにあったそうです。ずいぶん流され、そして破壊されました。無惨な姿ではありましたが、でも見つかってよかった。気持ちの整理がつきます。
車でさえそう思うのですから、家族の方であればいかばかりでしょう。心痛をお察しいたします。
帰り道お墓の様子も見てきました。
前着たときは破壊した倒れ、墓の下の骨壷が入るところは土砂に埋まっていましたがこのようになっていました。
おそらく土砂が取り除かれ骨壷が収められているものと思います。お寺さんの手配でやっていただいたものと思います。

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